2004/11/04

命の軽重 (2) 自己責任は自分に対しての責任

「命の軽重」続きです。

前回の人質事件で「自己責任論」という概念が提示され、それが正しいものとして定着したかのようだった (今は違ってきている、と信じたい)。 それが受け入れられた背景には、人質の家族の対応に対する反発もあったように思う (これは「覚悟が足りない」で書きました)。香田さんのご両親のように、一番悲しいのは自分達であるのにも関わらず国民の皆さんに謝罪、感謝されている姿があれば違った世論になっていたと考えられる (そんな香田さんのご両親に対して批難の電話をする人も多いそうですが)。

だが、この「自己責任論」って定義された概念なのか。聞いている限りでは、
危険を顧みず、忠告も聞かず出かけたのだから、誰も助けない。また、誰にも助けを求めるな
というように言っているようだ。

ここのタイトルに「自己責任は自分に対しての責任」と書いた。これは、社会に対してまで責任を取れというべきでないといっている。忠告聞かなかったから、
・自分が面倒な状況に追い込まれる。
・恐いめにあう。
・苦しいめ、痛いめにあう。
これらで十分じゃないの? 助けてくれって言っているのに「そのまま死んでしまえ」と言えるほど悪いことをしたの? 国のお金や政府・役人の労力を使うのがそんなにもったいないの? 忠告聞かなかったらそれだけ命が軽くなっちゃうの? などと思う。

・甘い話にのって詐欺にあったら、警察は捜査して犯人を逮捕してくれるんじゃないの? 裁判所は懲役刑を宣告してくれるんじゃないの? お金はあまり戻ってこないかもしれないけど。
・警告を無視して川の中洲でバーベキューしていた人たちに対して、救助隊は罵声を浴びながらも救助しようとしたよね? 全員は助けられなかったけど。
・自殺しようとしているしている人も止めさせようとするよね? 飛び下りちゃったら命は助けることできないかもしれないけど。

もちろん、最善を尽くしても、全てが事件事故がおこらなかったのと同様にはならないかもしれない。国が国民の命や人権や財産を守るということは、あらゆる場合において保証することを意味している訳ではない。ましてや外国では制約も多い。上記3つの例で、「〜けど」とつけたのはそういうこと。そこは本人に自己責任として受けてもらうしかない。
思い出しました。これって、そふぃあさんの受け売りだった (「レベルは違うけど」2004年4月20日)。
「風邪ひいたって、お母さん知らないよ。
自分で薄着がいいって言ったんだからね」
.....
結局、うちの子は薄着で出かけた。
子供の、服を選ぶ自由の権利を
母は認めたのである。
一応、お母さんは知らないよ、とは言ったけどね
風邪ひいたら、しかたない。
看病するのが 親のつとめだもの ね。
ここでは「熱や咳が出て、苦しい」ってとこまでが自己責任ということになるだろうか。

コメント
 Commented by sofia_ss at 2004-11-05 11:41 x
trackbackありがとう^^
私は「自己責任論」というのは、まったく無意味でなんの解決にもならないものだと思っています。自分で最後まで責任とりなさいよ、といったところで本当にそれが実行できるものなのか、できないと最初から見えているのなら、それなりの方策をとるべきだと思っています。
「危険なところに行ったのだから、命をなくす結果になってもこちらは関知しない」というのであれば、勧告ではなくもっと強く姿勢を打ち出せばいい。でも、それは実際にはできないことです。「自己責任」という言葉は、人との関わりを一切断ち切る、方便でしかない。野次馬が使うならまだしも、政治家が使うべき言葉ではないし、それを言ったところで事態が動くのか、と問い詰めたい気持ちになります。
子供が風邪をひく可能性があるのなら、風邪薬を用意するとか、正しい天気予報を把握しておくとか、親の意向に沿わない子供への対処のしかたってもんがある、と思った次第です。

 Commented by yoshihiroueda at 2004-11-06 05:37 x
★そふぃあさん、ありがとうございます。自己責任論が方便だというのはまさしくそのとおりで、政府が批判を避けるために持ち出してきたと思っています。4月は我々国民がそれに乗せられちゃったのが悲しいですよね。今回はあまり大きな声では言われませんでしたが、まだその後遺症が残っているようです。命を軽視する風潮はなんとかしたいですね。

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